2019年4月9日(火)、政府は1万円などの紙幣の肖像画を変える準備に入ったことを明らかにしました。
新たに肖像画となるのは、1万円札は、第一国立銀行など多くの企業の設立・経営に関わった実業家の渋沢栄一さん。
5000円札は、日本初の女子留学生の一人で、津田塾大創設者の津田梅子さん。
1000円札は、ペスト菌発見など医学の発展に貢献した北里柴三郎さん。
記者会見した麻生太郎財務相は、「明治以降の文化人から選定するという全2回(の刷新時)の考え方を踏襲した」と説明。
「新元号のもとでの新しい日本銀行券にふさわしい人物と考えている」と述べました。
今回は、日本における女子教育の先駆者といわれる津田梅子さんの父親に注目してみました!
津田梅子の父親は農学者でキリスト教徒
津田梅子さんは、旧幕臣・東京府士族である津田仙(つだ・せん)さん、初子さん夫妻の次女として、現在の東京都新宿区南町に生まれました。
父親の仙さんは、農学者でキリスト教徒。
そして、母親の初子さんは、献身的に夫を支えた人物として知られています。
父親の津田仙さんは、青山学院大学の創立に関わり、同志社大学の創始者である新島襄(にいじま・じょう)さん、自由と平等を説いた中村正直さんと並んで「キリスト教の三傑」と称されたほどの人物です。
また、日本で最初に通信販売を行った人としても知られています。
津田仙さんが、日本で最初に通販を行ったのは、1876年。
仙さんは、この年に東京・麻布に「学農社」を設立。
学農社は、農作物の栽培・販売・輸入をはじめ、農業関連の書籍や雑誌の販売などを事業としていました。
その学農社雑誌局発行の「農業雑誌」で、米国産トウモロコシの種を通販したのが、日本で最初の通信販売とされています。
当時の日本では、まだ郵便制度が確立して間がなく、通販ではなく「郵便注文営業」と呼ばれました。
その他、津田仙さんは、イチゴ、ブロッコリー、アスパラガスなど、西洋野菜を日本に広めた人物として知られています。
海外留学や女子教育に力を注ぐ
明治4年、津田仙さんは政府の事業である北海道開拓使に勤務します。
そこで開拓使時間の黒田清隆さん(のちに第2代の首相)が推進していたアメリカへの女子の留学計画をしり、娘を応募させます。
このとき津田梅子さんは、わずか満6歳で、岩倉使節団に随行。
女子の官費留学生第1号として、アメリカに長期滞在したのは、山川健次郎さんの妹の山川捨松さん、益田孝さんの妹の永井繁子さん、そして津田梅子さんの3人でした。
横浜を出港し、サンフランシスコを経て、ワシントンに到着しました。
船中の彼女たちの部屋には、伊藤博文さんがやってきて、よく一緒に遊んだそうです。
このように、津田仙さんは、娘である津田梅子さんの海外留学など、女子教育に力を注ぎました。
日本で初めて通信販売を始める
津田仙さんが、日本で初めての通信販売を始めた1876年。
この年には、仙さんは栗原信近さんに招かれ、ワイン醸造技術指導のため甲府を訪れています。
また、1890年には東北を視察して、りんご20数種を東京に持ち帰り、当時珍しかったマスコミ向けの試食会を行いました。
明治16年(1883年)5月には、第3回全国基督教信徒大親睦会の幹部として活躍します。
この集会は、全国各地のキリスト者が、相互の親睦交流や伝道上の協議のために行なわれました。
足尾鉱毒事件では田中正造さんを助け、農民救済運動に奔走しました。
明治30年(1897年)には事業を次男に譲り引退、鎌倉で過ごす。
明治41年(1908年)、東海道本線の車内で脳出血のため71歳で死去。
葬儀は青山学院の講堂で行われました。
死後、内村鑑三さんや新渡戸稲造さんらは追悼文を発表し,仙さんの事業を讃え、仙さんを「大平民」と呼んだ。
墓所は青山墓地。
以上、今回は、日本における女子教育の先駆者といわれる津田梅子さんの父親特集でした!