爆笑問題の太田光(おおた・ひかり)さんが、2019年3月31日のTBS系「サンデー・ジャポン」(日曜、前9・54)を休演しました。
理由は、前日の30日に出演したフジテレビ系の生番組「ENGEI グランドスラムLIVE」内で転倒して側頭部を打ったと説明されました。
病院で検査を受け、問題なしと診断されましたが、経過観察で安静にしているとの事。
この日の「サンジャポ」は、その太田光さんの代役として、宇垣美里(うがき・みさと)アナが出演。
ちなみにTBSを3月いっぱいで退社する宇垣アナは、この放送が局アナとしての最後のお仕事になりました。
今回は、お笑いタレントとしてだけでなく、文筆家、作詞家としても活躍する太田光さんの父親に注目してみました!
太田光の父親の職業は?
人気お笑いコンビ・爆笑問題の太田光さんは、埼玉県上福岡市で生まれました。
父親は太田三郎さん、母親は太田瑠智子(おおた・るちこ)さん。
父親の三郎さんの職業は建築士で、書道も嗜んでいました。
さらに、文学やお笑いにも興味を持っていたそうです。
「光」と命名したのは、父親の三郎さんです。
正しい「right」と明るい「light」という意味を掛けて「ライト」と名付けたかったそうです。
しかし、漫才師のコロンビア・トップ・ライトさんと同じになるので断念。
光り輝くようにという意味もこめて、「光」としたそうです。
太田光さんは、お笑いだけでなく文学にも造詣が深いですが、父親の三郎さんの影響も強いと思われます。
三郎さんは文学に興味があったために、自宅には大量の本がありました。
そして、息子の光さんが欲しがるならば、本をいくらでも買い与えたそうです。
さらに三郎さんの性格は社交的で人を笑わせることが大好きだったとの事。
太田光さんがお笑い芸人として、大成功したのも頷けますね!
叙々苑を設計したのは太田光の父親だった!?
爆笑問題の太田光さんといえば、本業のお笑い以外にも、小説を書くなど多才な面を見せています。
父親の三郎さんも、職業は建築士でしたが、かなり多芸な方だったようです。
母親の瑠智子さんによると、焼き肉チェーン店の「叙々苑」の、最初に六本木でできた店舗を設計したのは三郎さんとの事。
そして三郎さんは書道にも打ち込んでいて、「叙々苑」の看板の文字も三郎さんが書いたものだとか(驚)
また、三郎さんは若い頃は趣味で小説を書いていたり、落語が大好きだったそうです。
小説を書いたり、落語好きというところなどは、太田光さんにも受け継がれているように思えますね。
瑠智子さんいわく、三郎さんと光さんはは「似た者父子」だったそうです。
そして、太田光さんの自伝である著書の「カラス」の題字も、三郎さんが毛筆で書いたものです。
また、その自伝「カラス」には、父親の三郎さんが自分が書いた小説を太宰治さん(!)に見てもらったことがあるとの記述が。
さらに、映画監督を目指していた事などが綴られています。
太宰治さんと親交があったということも驚きですが、映画監督を目指していたというのは、やはり太田光さんと重なるところがありますね。
多才だった父親の三郎さんがやりたかった事を、息子の光さんがやっているように思えてきます。
太田光と父親の親子愛
そんな太田光さんの父親の太田三郎さんですが、残念ながら2012年3月19日午後3時57分に埼玉県の病院で死去されています。
死因は急性循環不全で、享年83歳でした。
太田光さんは、仕事のため父親の最後を看取ることはできなかったそうです。
しかし、母親の瑠智子さんによると、三郎さんが最初に入院してから1年半にわたる闘病生活でしたが、光さんは暇を見つけては見舞いにきてくれていたそうです。
そして、父親の三郎さんも、たった一人の息子である光さんのことを最後まで気にかけていたそうです。
太田光さんは、自身のラジオ番組である「爆笑問題カーボーイ」(TBSラジオ)で、父親と最期に交わした会話を明らかにしたことがあります。
三郎さんが光さんにかけた最後の言葉は「光、ごめんな」だったそうです。
三郎さんは、生前息子である光さんとあまり話をしなかった為、自分は息子から嫌われていると思っていたそうです。
さらに、息子である光さんには自分は迷惑しかかけておらず、何もしてやれなかったと、心配していたとの事。
しかし、実際には光さんは、父親にとっても世話になったと感じていたそうです。
父親と息子の関係というのは、なかなか難しいものである事がわかるエピソードでありますね。
しかし、父親も息子も、実際にはとてもかけがいのない人であったことは確かなようです。
以上、今回は、お笑いタレントとしてだけでなく、文筆家、作詞家としても活躍する太田光さんの父親特集でした!