千代の富士貢(ちよのふじ みつぐ)さんは、北海道松前郡福島町出身の元大相撲の力士で、第58代横綱。
本名は秋元貢(あきもと みつぐ)さんと言い、1955年6月1日生まれの61歳で、アダ名は「ウルフ」。
1991年5月場所初日に、当時新鋭だった貴花田(後の貴乃花)に寄り切りで敗れる。
翌日の板井戦は勝利したものの納得いく相撲とは程遠く、「もう1敗したら引退する」との決意を固めて、3日目の貴闘力戦に挑んだものの、とったりで完敗。
この貴闘力戦の取組を最後に、「気力・体力の限界」として、その日の夜に緊急記者会見で現役引退を表明、「小さな大横綱」として、歴史に名を刻みました。
今回は、大相撲で31回の優勝を果たし、相撲界で初めて国民栄誉賞を受賞した元横綱・千代の富士の九重親方の父親に注目してみました。
千代の富士の父親の職業は漁師
千代の富士さんは、1955年に北海道松前郡福島町で生まれました。
千代の富士さんの父親の秋元松夫さんの職業は漁師。
幼い頃から父親の昆布捕りの仕事を船の上で手伝っていた千代の富士さん。
それによって足腰が鍛えられ、自然と強靭な肉体を作り上げたと言われています。
千代の富士さんは運動神経が抜群で、中学生の時には、走り高跳び・三段跳びの地方大会で優勝し、「オリンピック選手もいける」と言われるほどでしたが、相撲は大嫌いだったそうです。
千代の富士さんの父親の秋元松夫さんのお仕事は漁師で、北海道で昆布捕りをされていたそうです。
千代の富士こと秋元貢さんは、幼い頃から父親の漁師の仕事を手伝う親孝行な少年でした。
荒波に浮かぶ船の上の作業により、秋元少年の体は自然と頑強になっていきました。
両親は相撲界入りに大反対した
千代の富士さんは中学1年生の時に、盲腸炎の手術を受けましたが、秋元少年の腹の筋肉が厚いために手こずって予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終了直前に麻酔が切れてしまいました。
それでも必死に耐え続ける体格の良い秋元少年を見た病院長が見出し、千代の山の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎さんに連絡しました。
その連絡を受けた九重(千代の山)から直々に勧誘されましたが、自身はあまり気が乗らず、両親も入門に大反対したため、一旦は断ったそうです。
それでも諦めない九重は、秋元少年に対して「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機に乗っけてあげるよ」「中学の間だけでも相撲をやってみて、後のことを考えたらどうだ?」などと持ちかけると、結局、その飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めました。
初土俵からは小兵ながら順調に出世していきますが、先天的に両肩の関節の噛み合わせが浅いという骨の形状から来る左肩の脱臼に悩まされますが、毎日500回の腕立て伏せ・ウェイトトレーニングに励んで脱臼を克服し、とうとう横綱まで昇進しました。
千代の富士さんの幕内優勝回数は31回で、白鵬さんの37回、大鵬さんの32回についで、現時点で歴代3位となっています。
意外なことに、千代の富士さんのご両親は息子の角界入りに大反対だったそうです。
当の本人も相撲は大嫌いでした。
しかし、そんな少年が大横綱になってしまうというのは、人生とは何が起こるかわからないものですね。
断髪式で息子の髷にはさみを入れた
千代の富士さんの引退相撲と断髪式は、1992年1月場所後に行われました。
父親である秋元松夫さんは、この断髪式に臨み、息子の髷にはさみを入れました。
ビシっとしたスーツ姿で登場した父親の秋元松夫さんは、細身で品のある紳士という雰囲気でした。
父親から髷にはさみを入れられた息子の千代の富士こと秋元貢さんは神妙な表情。
横綱の父親である秋元松夫さんは、常日頃からTVインタビューなどを受けても折り目正しく、控えめで静かに語る方だったそうです。
息子の断髪式に登場した父親の姿は、それを裏付けるような上品な男性でした。
千代の富士さんの父親の秋元松夫さんの性格は、多くを語らず、泣き言も言わず、しかし、強い精神と子を見守る温かい心を持っていたそうです。
その性格が「昭和の大横綱」で息子である千代の富士さんに受け継がれているといっても過言ではないでしょう。
大横綱として相撲界に名を刻んだ息子の断髪式に登場した父親。
体は細身ですが、その強い精神力は息子に受け継がれたようでした。
以上が、大相撲で31回の優勝を果たし、相撲界で初めて国民栄誉賞を受賞した元横綱・千代の富士の九重親方の父親特集でした。