「徹子の部屋」でお馴染みの黒柳徹子さん(82)は、テレビや舞台で活躍する傍ら、飢餓や紛争の地を訪れ、子どもたちへの支援を続けられています。
その原点には、戦時中に不安や飢えに追い詰められた自分の姿があります。
終戦当時12歳だった黒柳徹子さんは、食べるものもなく、栄養失調に苦しめられ、とても辛い経験をされたそうです。
なので、黒柳徹子さんは平和への思いが強く、2度と戦争をやめてもらいたいと強く望んでいるそうです。
今回は、ユニセフ親善大使や平和運動家としても活動されている黒柳徹子さんの母親について注目してみました。
黒柳徹子の母親の職業はエッセイスト
黒柳徹子さんの母親は、お名前を黒柳朝(くろやなぎ ちょう)さんと言い、職業はエッセイストだったそうです。
黒柳朝さんは、北海道空知群滝川町(現・滝川市)で、開業医の父親・門山周通さんと母親・三好さんの長女として生まれました。
門山家は代々松山藩の家臣で、朝さんの祖父・門山周智さんは東京で医学修行ののち、故郷の山形県松山町(現・酒田市)で開業、町会議員も務めた人物です。
その次男である周通さんは、仙台医学専門学校卒業後、北海道に渡って産婦人科を開業していました。
黒柳徹子さんの母親である黒柳朝さんは、1927年に上京し、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽家に入学。
在学中にベートーベンの第九交響曲の演奏を共にして知り合ったバイオリニストの黒柳守綱さんと結婚し、アパート「乃木坂クラブ」で新婚生活を始めました。
長女・黒柳徹子さん、長男・明兒さん、二男・黒柳紀明さん、二女・黒柳眞理さんが生まれますが、長男が敗血病で死亡。
1944年に夫が出征したため、青森県三戸諏訪の平へ疎開し、行商で生計をたてていました。
1949年に夫が帰国後も行商を続けていたそうです。
黒柳徹子さんは、戦後最大のベストセラーである「窓ぎわのトットちゃん」の著者として有名ですが、その才能はエッセイストの仕事をされていた母親譲りなのかもしれません。
黒柳徹子さんの若い頃の画像を見ると、とても可愛らしいので、母親の黒柳朝さんもとてもキュートな方だったと思われます。
母親の朝さんの画像を見ると、黒柳徹子さんは母親似だったと思われます。
母親は自伝「チョッちゃんが行くわよ」を出版
黒柳徹子さんの母親である黒柳朝さんは、夫の死後、北米へ講演旅行し、在留邦人や教会の奉仕をし、翌年の1984年、自伝「チョッちゃんが行くわよ」(主婦と生活社刊)を出版されました。
同作はNHK連続テレビ小説「チョッちゃん」としてドラマ化され、「チョッちゃん物語」はアニメ化されました。
俳優としてブレイク前の三上博史さんは、カリフォルニアの黒柳朝さんの家に居候していたことがあるそうです。
また、滝川市名誉市民で、滝川市の「市の花」にコスモスが制定されたのは、朝さんの言葉がきっかけだったそうです。
また、滝川市には600点ものアンティークを寄付されました。
2006年8月16日午後4時31分に心不全のため都内の病院で、95歳で亡くなりました。
黒柳徹子さんの母親である黒柳朝さんは、出身地の滝川市の名誉市民です。
滝川市のホームページには、黒柳朝さんについての略歴が写真付きで掲載されています。
朝さんが若い頃の写真も掲載されていて、それを見ると朝さんがモデルさんのような外見をされていたのがわかります。
母親との結婚に関するエピソード
黒柳徹子さんはテレビ番組に出演された際に、母親の黒柳朝さんとのエピソードについて語ったことがあります。
黒柳徹子さんは、テレビ番組で結婚をしようと思わなかったのかと問われ、何度か結婚しようと思ったことがあると告白。
芸能界に入ってから、3回お見合いをされたそうです。
もうちょっとで結婚するところまでいったそうです。
しかし、NHKのラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」(1954~57年)に出演している時に、尊敬している作曲家の先生に、結婚しようかと思っていると相談したら、1つでも気に入らないところがあったら、やめたほうがいいとアドバイスされ、よく考えた末に結婚を思いとどまったそうです。
すでに結納まで終わっていたそうですが、母親に結婚をやめたいと言ったら、母親の朝さんも「そうした方がいいかもしれないわね」と承諾。
それからは、先方から頂いたいろんなものをお返ししたりで、大変だったようです。
その後、母親からは結婚詐欺と何度も冗談を言われたりしたそうです。
また、黒柳徹子さんは、本当にお付き合いして、結婚しない?と言われたのは、2~3人だったと赤裸々に語っていらっしゃいます。
黒柳徹子さんの結婚に関しては、興味がある方が多いようです。
徹子さんも結婚はしたかったようですが、最後の最後で結婚するのを思いとどまった経験があるようです。
以上が、ユニセフ親善大使や平和運動家としても活動されている黒柳徹子さんの母親特集でした。