滋賀県大津市出身のフェンシング選手である太田雄貴(おおた ゆうき)さん。
太田選手は、北京五輪でフルーレ個人・銀メダル、ロンドン五輪でフルーレ団体・銀メダルを獲得しました。
北京五輪で、日本フェンシング界史上初のメダル獲得で一躍時の人になりました。
太田雄貴さんの快挙は偶然の産物ではなく、日々の地道な努力の結果でした。
その努力の裏にあったのは、太田さんの父親である太田義昭さんのサポートでした。
今回は、リオデジャネイロオリンピックでもメダルが期待されている太田雄貴さんの父親に注目してみました。
太田雄貴の父親も元フェンシング選手
太田雄貴さん(30)は、北京五輪で日本フェンシング界初のメダルを獲得しましたが、この快挙は、決して偶然の産物ではなく、小学3年から12年間、父親である太田義昭さん(63)との4270日にも及ぶ連日の練習が礎でした。
練習を1日も休まなかった努力の裏にあったのは、親子二人三脚の苦労の物語がありました。
太田雄貴さんは、自分が今あるのは、父親との特訓の毎日があったからと、迷いなく断言します。
運命の日は、1994年5月5日。
雄貴さんが小学3年生の時、父親の義昭さんから「スーパーファミコンを買ってやるから、フェンシングをやらないか」と誘われました。
ゲームソフト1本をつける約束で「契約」は即成立。
「すぐに辞めるつもりだった」という雄貴さんとは反対に、映画「怪傑ゾロ」に憧れて、京都・平安高(現・龍谷大平安高)でフェンシング選手だった義昭さんは、末っ子に狙いを定めていました。
長男の智之さん(37)は数週間で挫折、長女の麻貴さん(33)は説得に失敗。
夢を引き継いでくれる戦士は1人しか残っていませんでした。
兄の挫折で用具は揃っていました。
マスク、プロテクター、グローブ、剣…。
ただ、用具の出番はすぐには来ませんでした。
練習1時間のうち、最初の70%は違うことをしていました。
キャッチボール、サッカー、相撲など思い切り遊んでから、20分ほど集中して剣を突く基本動作を繰り返しました。
フェンシングは楽しもの。
子供心に刷り込ませたことが、前人未到のメダル獲得の土台となりました。
やはり偉業を成し遂げるためには、日々コツコツ努力することが大切なようです。
地道な努力を12年間継続した太田さん親子。
リオ五輪では、金メダルも期待されている太田雄貴さんの歴史です。
太田雄貴の父親の職業は小学校の教師
以来、盆も正月も練習を休まなかった太田親子。
職業が小学校の教師の父親と、小学生の息子は毎日、学校から帰ると向き合いました。
滋賀県大津市内の自宅1階のリビングで、父親の剣を叩き、突く日々。
嫌々ながらもフルーレの基本を繰り返した日もありました。
そんな太田少年に転機が訪れます。
練習開始から7カ月後の1994年12月、地元の「大山崎町長杯」に出場し、小学3、4年の部で見事に優勝。
「あれ?俺、強いんちゃうか」。
少年の目に炎がともり、父親の心も燃え上がりました。
やるなら、徹底的にやろう。
結果が出ると、練習が途端に楽しくなった太田雄貴さん。
その後も父親と連日の猛練習を続けたことで、結果は当然のようについてきました。
中学2、3年生で全国大会連覇。
インターハイでは史上初の3連覇。
高2の17歳では史上最年少で全日本選手権優勝。
そして、アテネ五輪に日本史上最年少の18歳で出場して9位。
父親と語り合った「連続優勝、史上初、最年少」の記録は、ほとんど手にしていました。
そして、2006年1月のある日、連続練習日が4270日を超えたころ、太田雄貴さんは、もう一回り成長するために父親との練習中止を決断。
その後、2006年アジア大会で男子フルーレ28年ぶりの金メダル。
2008年北京五輪では、日本人史上初の銀メダル。
決断が結果となって表れました。
地元の大会で優勝という結果が出たことで、俄然やる気になった太田雄貴さん。
その後も父親との二人三脚で厳しい練習を楽しみながらこなしていきます。
職業が小学校の教師だった父親は、「教えること」がいわば天職。
日々の努力が幸運も引き寄せ、メダリスト太田雄貴さんが誕生します。
料理の腕前はプロ級
太田雄貴さんの父親の太田義昭さんが、半端ではないところは、雄貴さんの練習だけでなく、食事などをふくめて生活全般の一切の世話を引き受けたことでした。
太田雄貴選手がフェンシングを始めた小学校高学年から、朝食&夕食は、義昭さんが一手に受け持ちました。
「一食10品目以上」「冷凍食品禁止」「基本手作り」を旗印に。
父親の義昭さんは、どんな料理でも本格的に作れ、その腕前はプロ級だそうです。
魚も三枚におろすし、寿司も握り、焼き鳥となると本格的に串に刺して直火で焼く。
子ども3人の誕生日などには、オーブンでローストビーフをこしらえる。
父親の義昭さんは、もともと料理が好きだったそうです。
中学、高校時代は雄貴さんの弁当も作り、当時大学生だった長女の弁当にまで進出していました。
「僕、おやじに遊んでもらうため、ずっといっしょにいるために、フェンシングをやってきたような気がする」
と、太田雄貴さんが言ったことがあるそうです。
この言葉の通り、父・義昭さんは全身全霊をかけて、雄貴さんに関わりました。
長男長女がやきもちを焼くくらいでした。
その背景には、義昭さんの小学校教師という職業から来る体験があります。
「いろいろな親子関係を見ていることが、僕の財産だと思う。そして、僕なりに思うことは、やっぱり親のかかわり方で子は劇的に変わる。どれだけ子どもといっしょにいるかで、子は変わる」
教師生活30年あまりの結論だそうです。
やはりスポーツ選手にとって体調管理も大切な要素です。
料理の腕前がプロ級の父親のサポートは、最強ですね。
以上が、リオデジャネイロオリンピックでもメダルが期待されている太田雄貴さんの父親特集でした。