政治資金の数々の不適切な流用問題で都知事を辞任した舛添要一さん。
舛添知事は、週末に公用車で別荘に移動していたり、家族旅行の宿泊代金や洋服代など440万円を流用していました。
また、海外視察ではスイート・ルームやファーストクラスを利用するなど、2億円もの公費を支出していたとの報道もあります。
とうとう辞任に追い込まれてしまった舛添要一さん。
辞職後の身の振り方にも注目が集まっています。
今回は、政治資金の私的流用問題で東京都知事を辞任した舛添要一さんの父親に注目してみました。
舛添要一の父親の職業は八百屋さん
舛添要一さんは、福岡県八幡市(現:北九州市八幡東区)に、父親の彌次郎さんと母親のユキノさんの間に、長男として生まれ、4人の姉がいます。
母親のユキノさんは、長野県駒ケ根市の小池家の出身。
舛添要一さんの公式サイトの経歴には、「舛添家は江戸時代から続く庄屋の家系」とあります。
しかし、実は幼少期には貧困を経験していました。
舛添要一さんの故郷は製鉄の町として知られて福岡県八幡市(現・北九州市八幡東区)。
父親の舛添彌次郎さんは、実業家だったそうですが、要一さんが幼いころには零落し、実家は小さな青果店を営んでいました。
つまり、舛添要一さんの父親の職業は八百屋さんということになります。
このころの様子を舛添さん自身が語ることはあまりありません。
しかし、「売れっ子国際政治学者」として多くのテレビ番組に出演していた当時の雑誌には、小中高時代の友人の証言として、こんな談話が掲載されています。
「舛添は八百屋の息子だよ。それも川っぷちの他人の土間先借りて野菜をパラパラッと並べたようなヤサイヤだった。貧乏?あいつが子供の頃、ポケットから金出して何か買ったの見たことないね」
舛添要一さんの実家は、5人目の子どもである要一さんが生まれる頃には、かなり没落してしまっていたようです。
実の父親の仕事は青果店の経営。
しかし、実情はとてもお店と呼べるものとはいえなかったようです。
落ちぶれて飲ン兵衛に
舛添要一さんは中高時代まではおとなしく、目立たない性格。
中学2年のときに父親が亡くなり、母親と姉4人とともに勉強部屋もないようなバラック小屋に住み、夜遅くまで野菜のリヤカーを引いていたといいます。
前出の記事の中で、舛添さんは父親についてこう語っています。
「そう。会社の大きいの持ってたけど、だんだん落ちぶれて。俺の頃は最悪、ただの飲ン兵衛だった。火事になって病気になって、すぐ死んだ」
幼少期の舛添さんは、他の子どもが持っているようなおもちゃ買ってもらえなかったそうです。
いつも一本の「肥後守」(ナイフ)を持っていて、それで木を削って、おもちゃを自作していたといいます。
舛添さんは、今もナイフの収集が趣味だといいますが、このときの原体験が影響しているのかもしれません。
舛添要一さんが中学2年生の頃に、父親が亡くなってしまいます。
その後は、母親と姉4人と共に、かなり苦労したようです。
当然、おもちゃなども変えず、自作して遊んでいたという話です。
特異な金銭感覚の原点
舛添要一さんは以前、関係者に対し、自らの頭を指さし、「自分はここ(頭)を使うしかなかったんだよ」と語ったといいます。
その言葉どおり、苦労人は勉学一本でのし上がりました。
東大法学部を卒業後は、助手として学者の道を歩み始めるが、73年に独断で渡仏し、パリ大学やジュネーブ高等国際政治研究所に客員研究員として5年間留学。
79年に帰国後は東大助教授となり、6カ国語を操る気鋭の国際政治学者としてメディアで注目されるようになります。
89年には母校を「さらば東大のアホどもよ」などと激しく批判し、辞表を提出。
在野の学者に転じました。
教授職の後継者争いに敗れたことが遠因だった、との見方もあります。
故郷でも東大でもはぐれ者だった舛添要一さんにとって、パリやロンドンなどのヨーロッパこそが精神的な故郷。
豪華な視察旅行でそこを訪れることこそ、「故郷に錦を飾る」行為だったのかもしれません。
華麗な経歴に隠された苦節の時代が、特異な金銭感覚の原点なのかもしれません。
舛添要一さんは、貧困に負けずに必死で勉強して、のし上がりました。
東大法学部を卒業し、国際政治学者としてメディアでも注目。
東京都知事にまでなったのに、とても残念な結果になってしまいました。
以上が、政治資金の私的流用問題で東京都知事を辞任した舛添要一さんの父親特集でした。